諸行事
昭和3年以後他校各校と、合同、或は交歓稽古が盛んに行われるようになった。
3年、東京帝国大、4年一高、7年早稲田高、9年早稲田大、8年一高、14年以後拓大、商大、立教大、22年明大、24年立命館大、
28年同志社大、更に、関西大、防衛大を始め各大学と続いた(以上判明したもののみ)。
更に、平成13年現在、早稲田大学と60回、関西大学と21回の永きにわたつて定期戦を続け大変親しい間柄にある。
又、英国ケンブリッジ大学とは昭和60年以来合同合宿、試合等交流を重ねている。
昭和5年夜行軍(この時は暑中、以後は12月末)。闇汁会。11月「拳」第一号発刊。
昭和9年或は10年「拳報」第一号発刊、平成14年6月現在第37号。拳報発刊の少し後「三田空手会報」第一号発刊、平成13年9月現在第50号。
昭和18年、遂に学徒動員となる。多くの先輩方が出陣され、御苦労なされ、多くの尊い犠牲となられた決して忘れられない出来事である。
敗戦 昭和20年8月15日、敗戦。日本の歴史上忘れる事の出来ない混乱と荒廃の中で生き続けて行く辛苦は空手部もまた同じであった。
それぞれが生きることの精一杯の中で道場をぽつぽつとたずねてノ−トに自分の消息を書き残す、尋ねる、情報を交換するなど連絡をとりあい、
食料、諸物資の殆ど手に入らない時代にお互いに肩を寄せ合って次第に集まり稽古が再開されていった。その時代に空手部を守り通した大勢の先輩方の御苦労が誠に忍ばれる。
やがて、敗戦直後の混乱から時代は次第に立ち直りを見せ、我々も戦前、戦中のあの空手部の黄金時代の華をもう一度我々の手で、を夢に青春を掛けての心意気が次第に部員達皆の胸に満ちていった。
その間多くの先輩方が我々に戦前、戦中の空手部の、旨に胸を沸き立たせる、そしてしみいるような話しを聞かせて下さり我々をひっぱってくださったことは忘れられない。
高木さん、湯沢さん、村田さん、堀江さんその他の方々であった。そして、20年代から30年代にかけて、以前には及ばずともそれに近い時代が出来ていったのである。
一時、占領下にあった日本は(過去の歴史上の比較で見た場合、最もと言えるほど友好的な占領政策であったと私は考えている。
但し、沖縄を始めとする基地周辺の方々はどれほど苦痛を長く味わって居られるか私達は忘れてはならないと思う。)連合軍総司令部(GHQ)から学校に於ける武道を禁止された。
若い日本人の敵愾心、復讐心の復活を避ける為であった。柔道、剣道がその対象となったが空手は稽古を継続していた。
しかし、いつ改めて空手が総司令部の目に留まり、禁止されるかの恐れがあり道場の窓の外に全て板を巡らせて外から見えぬ様にして風だけは通して稽古を続けていた。
あらためて今昔の感がある。昭和20年11月島谷英郎部長ご就任、温厚なお人柄で45年まで実に25年の永きに亘りご面倒を頂戴した。常に紳士的で落ち着いた変わらぬご対応が今なお印象にはっきり残っている。
22年、戦後第一回の合宿を山中湖へ、当時の事情から食料の調達に幹部は大変御苦労されたことと容易に想像される。
11月3日戦後第一回秋季大会が三田山上の歴史的に由緒高い、現在、国の重要文化財である演説館で行われた。
小幡さんが戦後始めて空手にお顔をだされ印象的であった。進級試験の審査をいただいた。
20年代末迄は2月3日の福沢先生のご命日は朝早く、目黒駅に集合して先生のお墓参りに行かないと寒稽古が皆勤にならなかった。
24年、進駐軍に接収されていた日吉校舎が接収解除され、それまで開かれていなかった日吉授業が再開され同時に稽古も再開された。
当初は校舎の屋上が稽古場だった。又、大学の授業は進駐軍の俗に言う、かまぼこ兵舎を使い、放課後はそれを道場とした。
試合制度の誕生 27年の夏も終わろうという頃、突然早稲田の大島主将、小森副将以下何人かが綱町道場に現れた。
「今までの交歓稽古は、全く礼節もなく、私学の永い伝統を持つ早慶両校が続けてゆくべきものではないと思う、ついては早稲田で試合形式のル−ルを造ったのでそれでやってみてはいかが」と言うものであった。
まだ当時の空手界は戦後間もなくでお互いに肩を張った処も残っていた時代だったが我々は、そのル−ルをチエックすることもなく「早稲田が造られたものなら全てそのままで結構てす。」と言って決定した。
場所は早稲田の道場、審判は全て拓大の先輩方、後の日本空手協会中山最高師範、後の福井拓空会会長、全日本学連副会長以下。
一方、早稲田は全盛時代で三段が4人もいて日本一を誇っていた。拓大も当時同じく全盛時代で三段が三人いて、
早稲田側から空手史上最初の試合であり部員がエキサイトすることを避け主将同士は試合をやらずに副将以下でやろうと言う申しいれで、
早稲田は小森さん以下、慶應は三年の望月以下各15人であった。結果はたしか7対4、早稲田の勝利であった。これが文字通り世界に於ける空手の試合制度の幕開けである。
そしてこの実現は、早慶両校の信頼と友情の賜物であった。
昭和31年になって、学生連盟として試合制度を策定し全国的な規模で試合を実施しようと言う機運が急速に高まってきた。
主要各大学の大先輩方が協議を進め、直ぐに合意となり、具体化のはこびとなる。私も東大OBの石塚さんと、日大OBの若林さん(後の全空連専務理事)のお宅に何回かお邪魔し試合制度及び審判規定を作成した。
次いでその規則を元に各大学のOB達が集まり、拓大監督だった入江さん達も加わり、学生部員達にそのル−ルで試合させいろいろ修正しながら完成させて行った。
その間慶應では小幡、伊藤、高木、望月、鈴木等が積極的な役割を果たしたが特に伊藤俊太郎さんは一貫して推進をリ−ドされた。
第一回全日本大学空手道選手権大会は32年秋、両国の日大講堂(戦前の相撲の国技館)で行われ、参加校、は確か29校、慶應は真鍋主将以下奮闘し、
拓大も倒し、決勝で明治大と当たり惜しくも大将同士の決勝で破れて2位となった。その間、小別当君は全勝した。
45年46年と、和田光二君が2年連続して全日本学生個人選手権を獲得する快挙を遂げた、更に、46年第一回世界選手権で見事優勝を成し遂げた事は記念に残る事であった。
尚、上記試合の名称で、大学とは大学のチ−ム戦であり、学生とは、選手の個人戦のことである。
その後下記の試合が加わることとなった。63年女子組手の団体、個人及び個人形で今日にいたっている。
又、男子体重別個人戦も組手、形で行われている。又、学生連盟と全空連で昇段審査が行われるようになって既に30年を越すと思う。
今日、全日本学連の試合参加校は260校で今昔の感がある。又、同じく32年の6月には和道流のみによる第一回の試合がおこなわれている。
審判規則の問題点試合に於ける反則の審判の判定は現在4段階となっている。その第一段階は「忠告」であるがこれは、
軽い当たりであればノ−ペナルティ−、つまり罰則がないとする判定である。処が試合で「忠告」が出た場合、その試合の結果は殆ど全てに近く当てた選手が勝ちを得ている。
これは技の差も無いとは言えないが、当てられた選手は肉体的にも、精神的にもダメ−ジを負うからである。
学連の大半の審判は、学校によってはこの「忠告」の規則を意識して悪用していると考えている。若し、これが事実とすれば、その不公正と危害防止の不備は問題である。
私は2年前から学連の会議で三度この改善を提案し、当時の田辺理事長も全日本学連の理事会で協議することを席上で約束し、
後に又、渡部さん、福井さん、若林さん、長島さん(早、拓、日、明のOB)に電話でお話しし皆さん良く理解されているが、現実には全空連とのル−ルに違いがでること、
世界連盟(WKF)とも同様の問題がでる事、学連の選手が地区連の試合に出場する際ル−ルの差が試合をやり難くすること、全日本学連内の意見調整などなどで大変壁が厚い。
以上、この問題の解決が課題である。木曜会、同火曜班、大空会、早慶ゴルフ会、囲碁会。 医学部信濃町道場で続けている木曜会の稽古は昭和52年以来実に、1172回
(平成14年8月8日現在)に至り、やや若手??の木曜会火曜班も平成4年以来既に、505回(同年8月6日現在)を数えている。続けていることと、
各人のそれぞれの意志と目的に合わせて自由に行われている事、その後の喉をうるおす会が楽しく、W継続は力なりWをスロ−ガンとして大先輩がたを先頭に若きも共に益々元気に継続の記録を更新している。
又、火曜班の知的な話や情報の交換も興味深く大変勉強になりみな素晴らしく、それらはさすがは慶應と他校から高い評価を頂いている。
ゴルフも大空会、早慶ゴルフ会とあり、回を重ねる毎に非常に楽しく盛り上がっている。囲碁会も十分に満足されて永く続いている。
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