「守」「破」「離」について


 守。破。離。とは足利三代将軍義光時代に、「能」を完成させたともいわれる観阿彌、 世阿彌親子によつて開かれた能の至芸に至る段階である。

 第一段階として、師から教えを受けた通りの事を忠実に守り、これを反復して正確に身に着けるまでの段階即ち「守」。

 第二段階として、師からの教えに自らの経験と研究を積んで疑問や改善、更に自身の体格、体系、体力、性格そして考え方を加えて研究を重ね、最も自身の持つ考え方、思想、そして条件に叶ったものに変化させ自らの意志によって師の教えを意識的に崩し、次第に築き上げてゆく即ち「破」。

 第三段階至芸の段階として、こだわりから抜けて自由に思うままに自然に身を置いて行えば、言わば合理の極致としておのずから至芸の境地に至る即ち「離」。「離」は理想の段階と考えるが、多かれ少くなかれ夫々が「破」の段階に入って行かなければならないと思っている。この段階に入ってゆかなければ既に研究を進める他校に勝つ事のできない段階にいたっている。

 紀元前500年の頃当時の中国で孔子は「四十にして迷わず」と言ったが、無論のこと当時も多岐の複雑な問題があったであろうことは想像出来るが、現代のような世界的な場での諸条件、情報の過多、変化、速度の中にあって四十ではまだまだ経験が不足と思はざるを得ない。世界も空手もいろいろと疑問を持ち迷わざるを得ない。それで良いのではないか。迷って研究して挑んでそこで到達してゆくものではないのか。逆説的に言えば、迷わぬ者に何が出来るか。

 一瞬逆のように聞こえるかもしれぬが、私は慶應義塾の根本精神は、人がやっているから或は人に言われたから行うのでなく、自らがそう考えるから行う事であると考えている。無論、人に教えられたり、アドヴアイスを受けて自らが変化し、進化する場合も含めてであり、之が根本であると思う。 「破」についてであるが、空手の歴史をみていると過去に組手について、どこまで研究し、どこまで経験、稽古してきたのかと言うことが具体的に出てこない。空手によって外的の侵略を防いで国を守ったなどという事実がなかったことは確かのようだが、船越先生については形では観空、鉄騎その他多くの形でご指導を頂き私達の知る範囲でその高い価値はよく承知しており、琉球においても糸州安恒師の跡の琉球尚武会の会長を継がれた程の首里手を代表する名手てあられたことは紛れもないことだが、組手についてどこまでの経験と研究を経て居られたかは率直に言って知りがたいというのが個人としての正直な表現である。空手の月刊誌などでは大先生の立ち方の写真などを図解して分析し、そこからくる組手に入った場合の、次に来るであろう動きの変化、立ち方の変化を想定して記事としているが、これも面白く、研究としての価値があるが大先生に一定期間教えを受けた者として、既にお年を召された頃のことでもあっただけにどうも実感につながらない。そして組手についてのご指導は、言葉のうえだけでもそれはほとんどなかった。大先生の琉球時代に於ける組手については全くといってよいほど記録もなく、琉球全体としても組手の具体的な記録が乏しくこれらは今となっては分からないのである。

 今、現実に試合が盛んになって、昔の形主体の空手と時代的に大きく変化したことは否定できない。退化したものと進化したものと(その表現はやや独特だが)両面あることも全く事実である。

 これよりは一層両面に目を置き、退化を止どめ、進化を更に掘り進めるべきことが道と思う。