武士道と武道(1)
武士道は鎌倉時代に生まれた。儒教の忠、孝、仁、義などの徳目から出発して、これに誉れ、勇など(これ等も儒教にあるが)が加わり日本の武家社会の精神的基盤を形成した。後に欧米列強が日本と種々外交上の交渉を持つに及んで、日本人の精神構造とそこからくる全体の人格を他のアジアの国と違うと評価したことにも大きく影響を残している。うれしい事である。
しかし一方鎌倉幕府が武士道を造り、強く広めた意図を考えてみると幕府は日本で初の武家政治体制の社会機構を構築し之を確固たるものとするために、軍事力と行政、また立法までも司どる武士を完全に掌握する必要から、武士達の精神構造を根本から主君に対する死をも顧みぬ絶対的忠誠に育て上げる方針を取った。それは結果として武士の幹部のみでなく末端まで徹底した武家社会の道徳の規範のごとくにまで、統一された恐らく世界史上稀に見る成功であったろう。それは道徳的資質、規律の遵守など国家的資産を育んだが、一方で人間が皆、自らの意志で事が決められず、上の顔色を見て事に当たる習性を社会的に身につけてしまったことへの甚大な負の影響も見ないわけにはゆかない。
新渡戸稲造はその著「武士道」のなかで武士道も武道も封建制度の所産であると書いている。
福沢先生は申す迄もなく、封建制度を打破し、国民一人一人が自己の尊厳を自覚し、自身の独立の意識に目覚める事が人間の幸せの基本であり、その平等の人間思想を根本として、また当時海外列強の脅威の前に、自国の独立が危うかった中で日本人の自覚を高め独立を守る必要からも、社会的進歩の為の指導理念としての独立自尊を生涯を通じてあらゆる視点から説かれたのだった。
後に内外の多くの歴史学者、思想家が福沢先生をして、近代日本に最も影響を与えた人物と評したしたのである。 今世界が、生きて行く上で「創造」を競ってゆかざるをえない厳しい時代にあって、この封建制度の所産の一つの側面がこれからの日本が生き残って行くための発展の阻害要因でもあることを我々は区別して認識しなければならない。
日本は六世紀半に亙って個の存在と認識が抑制されてきた事実は否定できない。既に30年程も前から、個の文化の目覚めの重要性が語られながら、永く辿った歴史の経過からか、或は日本人の資質か、変化への対応の鈍さ遅さが日本の将来への予想を曇らせている。 一方、武道と言う言葉は武士道が生まれて後600年近くを経て生まれた。明治維新の直前であったようである。それまでは武術或は武芸であった。徳川の260余年に及ぶ永い平穏な時代を経て、どうしても武士の精神や生活は弛緩する。又、徳川幕府自体の存立基盤も大きく危機を迎えるなかで武士の精神作興を意図したものであったのか。いずれにせよ武士の緩んだ精神や生き方を刷新しようとする意図からだったのではないかと思われる。そして次第に日本が軍国化してゆく中で「道」が強調されていったと考えられる。
日本で第二次大戦前に創部された空手部は殆どが只、「空手部」であった。然るに戦後、日本が軍国時代と決別して自由と民主主義の価値観を共有する時代となった以後に創部された部は全てと言ってよいほど「空手道部」となっている。何か一律的で日本人らしい右へならへで、時計の針が逆に戻ったように感じられる。伊藤俊太郎さんは昔「近ごろ空手道を耳にするが、私は空手をやってきたのであって空手道をやった覚えはない。」と。高木房次郎さんにそれを話したら、私もその通りだ。ということであった。「道」と付けた「部」が特に道徳や倫理の面で高い位置にあるとは考え難いのだが一つの現象である。日本人はどうも道、と付けることがかなり好きなようである。
「月刊 空手道」によると柔道の嘉納治五郎師が講道館柔道を創始したのが明治15年であり、大日本武徳会が剣術、柔術、弓術をそれぞれ剣道、柔道、弓道と呼称するようになったのが大正8年で、大正15年に文部省の体操科の教材に「剣道及び柔道」と表記されるようになったとある。又、銃剣術は武徳会で昭和15年に術から部へ、合気は大正11年に植芝盛平師が創始し当初は合気武術と呼び昭和17年に合気道に、少林寺拳法は戦後の昭和22年の創始となっている。
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