武士道と武道(2)


 武士道の字を題に入れたのであるからこれの説明を何か具体的に触れねばいけないのかもしれない。只、私の正直な気持は「道」と日本で一般に考えられるようなものは改めて書くようなことではないと思っている。おそらく多分に精神的なもので長期的に実践を伴うべき性格を持った思想に近いものであろうか、それを文字にすれば精神思想にたいする思考の規格化のようなものではないのか。本来はそれぞれが心の中にもっているべきものであって、それぞれ個人の人間性の中に存在する筈の「個」のものだと思うが、その資質は全体的に画一化されるてしまう。若しくは画一化して考えるものではなく個の人間性の中から生まれそして又次第に人間形成が進むと共に年齢を経て更に育って変化してゆくべきものと私は考えている。

 従って前記の鎌倉幕府によって生まれた武士道が、人間としての高い価値を自らに備えようとする純粋な目標と、一方、行政上と言う目的以上に統制的目的を背景を持つことが規格化された結果を生んでしまった面が少なくないように考えている。

 確かに武士道も絶対忠誠としての従属を前提としながらも一面では主君に対する諌言、その究極は「押し込み」と、いわば蟄居に類するところまでの手段もなくはないが勿論これは規則として存在する訳ではなく、命がけであるうえ反対勢力も多く主君が若し知る所となればその成功率は甚だ低いといわざるを得ない。現実に徳川260余年のなかでも実例は少ない。
 
 本来「道」とは人の生き方、在り方のことであろう。それは又、ものの見方、考え方から出発するのであろうか。しかしてそれぞれの道であって良いのではないか。自分自身で思う人生の歩み方。それらが長い人生で一貫した場合の価値と、又人生の環境や条件の変動に因って変化し成長することの価値と、人は一般にどのように考えているのだろう。正直、親切、勤勉、正義、責任、真義、愛、自戒、意志、奉仕など、そして合理性。自身が未熟なるが故にこそ。

 空手においても、初期に教えを仰いだ師の教えを唯ひたすらに守ることに価値を固定する観念を私は否定する。若い時代に教えを受けたものと、それが次第に空手に対する知識と経験を経て変化しないはずがない。又、それぞれの体格、体系、体力、性格、個性からも自身への適、不適の部分が目に見えてくるはずである。一方、武術、武道として考えれば、当然ながら格闘術は新しいものが研究され或は自然発生的に次々に生まれてくる。例えばK1なども率直に言って格闘の世界で無視できるものではない。空手としてもこれらに負けない為の意識、研究、改善が当然必要であろう。

   教えを守るということで、二つの種類があると思う。その一つは精神的教えであるが、これは普遍的性格が多い。唯、私のことを言わせていただければ若い頃から精神的な教えには、自分自信で自ら感じ取ったものを別として、規定された観念的なものを好まなかった。今、日本でも世界でも、若い、未だ精神的にも知能的にも備えのない無防備な人たちが、日々、一見宗教的な或は精神的な言辞を用いた教えを日々繰り返された場合、その結末は狂信的な脅威につながる恐れが非常に強い。例えばオウムである。之は決して特例ではない、日常どこでも現実に起こり易いことなのである。

 教えを守るその二は、技術的教えについて、運動競技は常に対峙する相手が居り、これが常に改善し変化し進歩を続ける。格闘武術でも常に相手が進歩し、又、新しい種々のものが生まれて、これらを対象として考慮の中から外せないと考えたならば、或は又、空手同士としても200年前に伝えられた内容を全面的に守りつづけることをもって満足することを只よしとすれば自己満足となつて世の中の進歩は止まってしまい許されない筈である。 以上、それぞれが東洋性、西洋性の歴史からくる思想に通じる側面があると思えるが、それらがもし一方の文明に偏するような枠から抜け出られないようなものであるなら、それは知の堕落ではなかろうか。人生の中で人はそれぞれに自戒し改め、挑み達成し、意志と努力と、豊かな優しさの次なる時点を求めて、つらさと楽しさと喜びをもちながら人生の終わりに近づいてゆくのではないだろうか。

 人にはみな生きるうえで義務と責任がある。家庭的、社会的、あるいは道路を歩く上でも、外で何かを見たときでも大なり小なりに、もちろんその大きさなどを離れて言っているのだが、道とはそれぞれの人間性からくる生き方なのだろうと。それはいつまでも自戒、向上を心掛けなければならないし、又、枠をはめられるものでもない筈である。  私はずっと以前から、道というようなものは、その性質は、前述のように字にしたり、人に語ったり、又、当然ながら他から規定されるものではなくそれぞれの心の中からくる人間性だと考えている。一方で、その元となるはずの、ものの見方、或いは考え方は、これは思想にほかならない。思想は知から出発し、知を分析、理解した上で、結局は心で完結するはずである。そしてそれは弾力的なものでなければならないと考えている。
 
 慶應義塾の空手部にあって、現役時代も卒業後も育まれたものが、もし社会、というよりも人生で通らないものであったら先ず自ら考えなおさなければならないだろう。少なくとも私達は自身の思想や生き方が、決して空手の世界でしか通用しないものであってはならないと思うのである。