琉球の統一と外交方針
琉球が何時統一されたかということは、何を以て統一と見るかによって異なるが、藤原稜三氏(武術史全般に関する著述家の代表的存在の一人、『格闘技の歴史』『守破離の思想』『禅の歴史と思想』その他多数の著述及び『空手ジャ−ナル』主宰)。の著「格闘技の歴史」によると。「琉球の伝承に従えば欠史時代の支配者は天孫氏なる豪族で、その二十五世の時、利勇なる奸雄が現れ天孫氏の王位を奪取し自ら中山王と称したのだと言う(只しこの中山は後の三山対立時代の中山とは異なる)。
しかしこの偽王の治世は長続きせず、舜天によって滅ぼされてしまう。偽王を滅ぼした舜天は諸公の推戴を受けて、正式に中山王位を引継ぎ琉球王朝時代はこの舜天から始まる。これによって琉球の有史時代の幕を開くのである。そして琉球王朝の歴史が中山の歴史として、この舜天王統(1187〜1259)から始まり、英祖王統(1260〜1354)へと引き継がれ、次いで14世紀中頃から北、中、南の三勢力に分れて対立する三山抗争の時代に入ってゆく。
琉球では現在の村を古くは間切り(まぎり)と言い、各間切りには安司(あんじ、若しくは、あじ)と呼ばれる武力支配者が居り、その中の勢力のある者が世主(よのぬし)と称して城郭を構えていたが次第に兼併して力をつけ英祖王統が終わりを告げた1354年以後上記北、中、南の三山時代を迎える訳である。
丁度その頃、シナでは明が元(1234〜1366)を滅ぼし(1368)天下を統一して周囲の国々に遣いを発してこれを告げて忠誠を促していた。一方琉球では上記三山時代から、それぞれが大国の支援を受ける目的で明に貢物を献じ、明もまたそれぞれ三山に王号を授け、これにより琉球全体が明の朝貢国となり明の国王就任の都度、国王勅使としての册封使が琉球に派遣され、琉球の各王に領土とその統治権を承認し、琉球からの貢ぎ物を受けてシナに帰国する習わしとなった。この册封使の初回の琉球来訪は1404年で以後継承され最も多い時は600人が6ヶ月滞在の記録がある。
更に藤原氏は、琉球王朝の歴史が中山の歴史として、上記舜天王統から始まり、英祖王統へと引き継がれ、次いで上記三山分立時代を経て、第一尚氏王統(1429〜1469)から第二尚氏王統(1469〜1879)へと続き、第二尚氏王統の時代に明治維新を迎えたことになっている。と書かれている。続けて、舜天王統と英祖王統については記録にかなり怪しげなところがあるけれども、三山分立時代に入ると、明朝の側の記録が加わってくるので、その信用度は急速に高くなってくる。と。
明国が初めて琉球島へ使者を送ったのは、1372年(洪武5年)朱元璋(明国の太租=洪武帝=1328〜1398)が大明皇帝の時代であった。上記三山分立時代の余韻の残る15世紀の始め、佐敷の安司、尚把志(しょうはし)が勢力を得、二山を次々に討って1429年琉球本島を統一し尚王時代に入る。そしてシナ及びインドネシア、朝鮮半島その他南の国などとの貿易の中継点として盛大に交易を行って莫大な利益をあげ首里王都の建設、その他大変豊かな時代を築いていったのである。王統は7代48年に及び1470年尚円が代った。(日本百科大事典より)。上記と年代的に幾分不一致はあるが、ほぼ1429年頃を以て琉球の統一が完成されたと見て良いと思う。
この時代の琉球の政治は以後、平和維持と交易の2点に絞られて進むこととなる。これは琉球歴史の大きな特徴であった。役人はサムレ−と称して行政を行うが武器を持たず、その変わりに三線(サンシン)と称する楽器を以て歌舞音曲を習い専ら日本、シナを始めとする外国からの客の接待を重要な役割とし、上記の他に主に料理、演劇の研究と実技、日本用とシナ用の迎賓館を別々に建設し、それぞれの好む果物までも栽培した(NHK3チャンネルその他)。国の外交の基本を日本、シナ双方の何れにも偏することなく友好的に関係を保つことに最も重点を置いて平和と貿易の利益を最大に享受した。その外交方針が通用したことも合わせて、現代世界の環境とは大きく異なっていたのである(NHK3チャンネル、その他)。当時琉球は日本、シナ、インドネシアの貿易上の中心拠点として、更に朝鮮半島を入れた拠点として上記のように貿易に大きく発展、繁栄した。
又、時に俗に言われることのある、琉球が唐手をもって外国の軍の侵略を撃退したというようなことは歴史上残されておらず仮作(つくりばなし)ではないかと考える。現在でも空手を経験した比較的若い人のなかに琉球が過去、軍事的侵攻にたいし空手を以て戦い独立を維持したような歴史観を持っている人が意外に少なくないが、そのような事実に琉球の歴史で触れたことはない。1609年(慶長14年)薩摩藩の三千余名による出兵の折も琉球がこれに抵抗した記録に触れるものはなく、恐らく無血の首里攻略であったのではないかと思われる。これは当時の琉球政府の自国の当時の置かれた国際状況を十分に認識した優れた外交方針であった。
一般に火器でなくとも弓、刀、槍など武器を所有する国家の集団組織たる軍隊に対し空手に限らずその他の徒手空拳の武術の集団が対抗し得ないことは想像できる。尚、参考までに火縄銃は1543年(天文12年、室町時代)種子島に伝来した。大砲は、先ず黒色火薬が7世紀頃シナで発明されアラビアを経てヨ−ロッパに伝わり13世紀に欧、亜を大きく征服した蒙古軍は火箭(かせん=ロケット的なもの)を使用したと言われており、次いで日本に侵攻した元軍(国王フビライは蒙古ジンギスカンの孫でこの頃元はシナ全土を制圧し、更に広く南方方面及び朝鮮半島も事実上制圧していた。)もこれを用いた。大砲は14世紀の始めドイツの僧侶によって発明されたと言われイギリス、フランスなどで製作され1346年英、仏間のクレッシイの戦いで使用されたという。
[注] 上記、元軍の日本侵攻は1274年文永の役で元軍が対馬、壱岐を侵し次いで佐賀、長崎両県の一部に上陸し、1281年の弘安の役では旧宋軍捕虜及び朝鮮高麗軍を伴った元軍十万余が福岡、長門に大挙襲来したが日本も時の執権北条時宗麾下、国を挙げて決死で戦い、同時に上記二役共に沿岸で大台風に襲われ元軍は大損害で敗走し日本国は救われ独立を守ったのであった。
長嶺将真氏(沖縄空手道連盟会長4期、戦後沖縄空手界の代表的存在)の著「沖縄の空手道」(同氏と親交のあった慶應義塾大学空手部OB、松崎孝一郎氏より拝借)、その他の著者の書に1816年、那覇に寄港し40日間滞在した英国軍艦二艘が帰途セントヘレナ島へ立ち寄り、東洋に武器を持たない小さな非常に裕福な島国がある事を話しこれを聞いたナポレオンを大変に驚かせたとも書かれている。
|