全日本空手道連盟の組織と松涛同門会


 さてこのあたりから次第に空手が琉球に渡った経過に近づく訳だが。藤原氏によると、明の朱元璋皇帝が琉球統一前の中山王察度に対し進貢使(貢ぎ物を送る為の使い)の船舶の便宜を計る為に1396の1月(洪武29年)福建人の船舶建造の舟大工三十六姓を与えているが、実はその20年も前から中山王の政務を助ける為とする少なくとも50人以上の明人の官吏が琉球に送られて現地妻を迎えたりして、第二世も成人しており少なくも200人以上の同族集団が首里城下で暮らしていたこととなる。これは明の内陸系の安徽人や江西人が中山王府の中に在って行財政面において、大きな役割を果たしていた訳だからそれらの人たちが、長江(日本で言う揚子江)流域で行われていた拳法(南派拳)を琉球島に持ち込んできたと考えても不思議ではあるまい。福建派に見当たらぬ「公相君」の形などもそう考えることによって解明の道が開けてこよう。上記のようにこれより20年遅れて琉球に渡った福建人三十六姓の場合は舟工(福建省は船材の産地で造船の本拠地)として渡来してきた人達であるから造船、操船(『海洋族、越人の子孫』越人とは春秋時代の列国の一つでその習俗から見て東南夷と考えられている)の技術には長じていたものの、既に福建の拳法(こぶし)は殆ど解明されていたのでこの人達(福建人舟工)が拳法(こぶし)の最初の伝来者と考えることには矛盾がある。と書かれている。  この船大工渡琉以前の明人官吏によって伝えられたと考える説は、一般に上記の明の朱元璋皇帝が送った船大工の中の幾人かによってシナの拳法が伝えられたと言う通説をかなり周到な調査のうえで否定している。何れにせよ今の空手が何時硫球に伝えられたかは多くの人の深い関心事だが、これから先は私の言及の及ばない処である。  斯様にして、後に琉球で始めて「唐手」と呼ばれる事となった拳法(拳法のなかで、棍=棒、拳=こぶし及び蹴り足を中心とした素手の武術)が伝えられ、後に琉球で始めて「唐手」と呼ばれることとなったのである。  シナに於ける武術史の中で「唐手」或は「空手」と言う言葉は現在までシナ武術の言葉として現れてこないようであり「唐手」と言う言葉が琉球で生まれたことを琉球の多くの書が明言している。又、武術、武技、格闘武術などの言葉は使われるが武道という言葉も現れて来ない。「武道」は鎌倉時代に儒教を母体とし日本で生まれた精神文化の「武士道」と関係が深いことは間違いない。「武士道と武道」については、第一章に私自身の思う所を率直に記した。  来たる2008年北京で開催されるオリンピックに中国が8種目の中国武術の競技を申請するとの新聞記事を平成14年始めに読んだが、太極拳、拳法、カンフ−(シナ拳法の総称のような意味を持つ)なども考えられるもののアテネオリムピックに向けて競技種目の削減が言われておるなか行方は不明である。

 一方、前記中山王府の政務輔粥(ほひつ=明治憲法の観念で天皇の国事行為に進言し、 その結果に対し全責任を負う役割)の任で之に赴任した明の官吏達の先住者グル−プの邸宅は首里城付近に堂々と構えられているのに対し、福建人グル−プの住居は、首里城から離れた浮島(唐栄村、久米村)地区に限定されているから二派の唐手術が琉球内で併立しながら存在していたとしても少しも怪しむに足りない。としている。(首里は現在の那覇市の岡の上にある)

 そもそも琉球にはかなり古くから「手」(でぃ、若しくは、て、で)と言う武術があったが、大塚健治氏著(関西大学空手道部OBで昨年空手に関する長年のご研讃から文部科学大臣表彰を受賞)「空手道の理論と実際」によると「琉球では徒手武術のことを「手(でぃ)」と呼びその系譜は首里城を中心に発達した首里手(松村宗棍1809〜1899)系と、那覇で受け継がれた那覇手(東恩納寛量1853〜)系、そして泊村で栄えた泊手(宇久嘉隆1800〜1850、照屋規箴1809〜)系の三つの系譜でありましたが、後に生まれた上地流(上地完文1877〜1948)系を加え大きく四つの系譜に分類され現在では流派に発展し少林流、小林流、松林流、剛柔流、上地流、本部流、一心流、劉衛流、湖城流、沖縄拳法などの流儀流派が見られます。」とある。更に、「『手』は明治38年(1905)に沖縄県立中学校の正課に採用され唐手と書いて(とうでぃ)と読ませるようになり更に、昭和11年(1938)に那覇昭和会館で武道家の協議集会が開かれ倫理的教訓を第一義とする『徒手空拳の武道』と言う見解から「空手道」の文字があてられました。とある。

 この「手」については琉球に古くからあったと言われているが、その期間、技の内容などはっきりしたことは分っていない。藤原氏は琉球ではシナから拳法が伝来して以来琉球人がためらいなくこれを唐手と呼んでいることから、それまで「手」の存在がそれ程重きをなしていなかったと考えられるとされており、前記、沖縄の長嶺氏は「唐手」の名と字は拳法がシナから渡琉後に琉球で付けられたとそれぞれ書いておられる。