薩摩藩の琉球支配


 藤原氏の[格闘技の歴史」によると、琉球諸島の北緯29度以南の南西諸島は古くは南島と言い、奈良時代の頃まで日本の太宰府の管下とも言える状態にあった。事実それほどに縁の深い関係にあったが、日本はその後は琉球をシナ貿易その他との中継拠点として利用するため、これを明の属国の状態として、つまり形態としては一つの独立国として尊重して対応した。琉球も又、日、シ一方に偏することは国家の破滅に及ぶと承知して中立的立場を堅持しこれが琉球歴史の道筋となった。そして琉球はこれを長く守る事に成功した。
 時を経て豊臣秀吉の時代、朝鮮に於ける戦いで秀吉が薩摩藩に命じて琉球王尚寧に対し7000人分の食料10ヶ月分を翌年2月末迄に坊津港まで搬入するよう指示したところ、財政窮乏を理由に割り当ての半分を送ったに過ぎず、尚王が、その一方の宗主国たる明の朝鮮に対する思いを配慮したことなどに、秀吉、琉球の間で命を受けた薩摩藩主島津義久の立場は深刻であったが、ややあって秀吉が亡くなり徳川家康の時代となった後も尚王の手落ちが重なり、結局薩摩藩は樺山権左衛門久高を総大将として1609年(慶長十四年)三千名の兵を出して首里城を攻略してしまうこととなってしまった。
 琉球諸島は、廃藩置県により明治12年沖縄県となる。第2次世界大戦後アメリカはその統治の間再び琉球を公称した。面積2388平方キロ、神奈川県よりやや広く、平成13年5月1日現在、人口132万人。