沖縄に於ける空手関係史(2)
1878年 屋比久孟伝(〜1941)首里に出生。空手は糸洲に師事。県立師範及び明治大学で指導。
1879年(明治12年)3月31日、 明治政府、琉球県を廃し沖縄県を設置。尚泰王、首里城を明け渡す。
1880年 沖縄県師範学校創立。
1887年 唐大基(〜1944)出生。シナ拳法「武備志」の技能伝承者。五祖拳の名手でチントウ、セイシャン、ロ−ハイ、ワンシュウの形を伝承。
1888年宮城長順(〜1953)出生。那覇に剛柔流開祖。硫球警察学校空手師範。
1889年 東恩名寛量、沖縄に始めての空手道場を那覇に開設。
同年 摩文仁賢和(〜1952)出生。警察官時代、新垣の棒と多和田の釵を修む。糸洲系と東恩名系の形を学び、1929年大阪市鶴見に道場開設。1934年関西大学、1942年、東洋大学共に師範、後に、大日本空手道会設立。
1889 粕谷真洋、慶應義塾大学教授出生。後に慶應大学に本州初の学校の空手部を創部。
1891年 祖堅方範、西原に出生。1905年、松村宗棍の孫松村ナビからナイフアンチ初段二段、パツサイ大、小、ク−サンク−白鶴、チントウ、五十四歩、平安初段、二段、三段、三戦を、更に1909年サイとカマを伝授。
1892年6月1日、 大塚博紀(孝名)、茨城に出生。船越義珍の門弟となり、少し後和道流を創始。
1895年 大日本武徳会創立(会長、渡辺千秋)、
本部を京都に置き、武道家優遇策として称号「範士」「教士」「錬士」設定。
1897年 上地完文シナ福建省松渓に渡る。
同年 県立第一中学校、市立商業、師範学校等に唐手部が設置される。
1898年 千歳剛直那覇に出生。千唐流創始。
同年11月7日松茂良興作(泊手の始祖)死去。
19世紀末から20世紀初頭にかけて与那嶺武士ツル、安慶名ウシ、女武士メ−カ−(真栄城初枝)など女性空手家登場。
1902年 船越義珍『琉球新報』に「空手の歴史」掲載(沖縄県空手博物館にコピ−保存)。
1904年 糸洲安恒「平安の形」創作。首里手の基本形の整理、統合、シナ拳法の原形のナイフアンチなども改良。
この頃を境に、首里手は新旧入り交じり普及されて行き、その後に問題を残したが、シナ伝来の手法が琉球人手法「唐手」へと変化した。
そのため現在、同じ形名でも道場間に古式と新式とが共存して伝承される結果となった。
この年、小幡功(松涛館、慶應大学OB)、坊秀男(和道流、東京大学OB)出生。
1905年 花城長茂の空手指導、及び糸洲安恒の実績で沖縄県立第一中学校及び師範学校に唐手が採用。同時に「トゥ−ディ」の呼称も「カラテ」と改称され「空手」と表記されるようになった。
1906年 安里安恒、(松村宗棍の直弟子、船越義珍の師)死去。
1907年 長嶺真将出生。沖縄空手道連盟会長に四期連続就任。範士の称号を受ける。
1909年 山口剛玄、鹿児島に出生。48年全日本空手道剛柔会設立。
同年 上地完文、シナにて10年余パンガイヌ−ン流の周氏和に師事して帰国。同年 野口宏(松涛館、早稲田大学OB、稲門空手会会長)出生。
1911年 剣道、柔道が日本本土の中学、師範学校に正課として採用。
1912 大正時代 大正天皇 //総理大臣 西園寺公望
1912年7月30日、 大正と改元。
1913年 高木正朝、中山正敏(いずれも日本空手協会、中山は最高師範)出生。
1915年 宮城長順(剛柔流)、シナ福建省福州にわたり、シナ拳法を研究、修行し「転掌」形を考案(南派少林拳の六機手が原形となる)。
同年 伊藤俊太郎(松涛館、慶應大学OB)出生。
1917年 沖縄唐手研究会発会。摩文仁賢和宅にて屋部、花城、徳田、城間、大城、徳村、石川、船越、宮城のメンバ−が参集。
同年 渡部俊夫(松涛館、早稲田大学OB、稲門空手会会長)、 宇治田省三(剛柔流、立命館大OB)出生。
1918年 福井功(松涛館、拓殖大学OB、拓空会会長)、細川隆一郎(松涛館、早稲田大学OB)出生。
同年 糸満の空手家マチヤ−文徳(金城松)を撮影した記録映像と共に許田重発(当時30歳)他4,5名で剛柔流形「クルルンファ−」「転掌」「セ−エンチン」、
おそらく沖縄で撮影された最古の映像か、沖縄県空手博物館に保存されている。
1920年 米国ロスアンゼルスにて屋部憲通、唐手演武。
同年 高木房次郎(松涛館、慶應大学OB)出生。
1921年3月6日 皇太子裕仁殿下渡欧途次首里城正殿で空手演武見学。
同年木崎友晴(剛柔流、立命館大学OB)出生。
1922年 文部省主催第一回体育展覧会を東京にて開催、これと、これに続いて講道館にて船越義珍、「観空大」、儀間真謹「ナイフアンチ」を演武。
1924年4月12日 、船越義珍、空手の段位を初発行(昇段者は、儀間真謹、粕谷真洋、大塚博紀、小西康裕、等。恐らく空手界初の段位証と思われる)。
同年 10月15日船越義珍、慶應義塾大学唐手研究会の師範となる。
1925年10月 東京帝国大学唐手研究会設立。
この頃、「唐手術」や「手」の呼称から首里手、那覇手、泊手、と呼称されるようになる。県労務課長の提案からであるが、実際にはそれ以前からそのように呼ばれていた。
1926年3月、那覇市にて「唐手術大会」開催、(開催者、宮城長順、摩文仁賢和、演武者は屋部、花城、久場、喜屋部等)、柔道の嘉納治五郎、三船久蔵など見学。
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