空手のこと(2)


 (C)基本という言葉の捉え方について。と、再び「守」「破」「離」について。

 基本という言葉の意味をかなり以前から考えさせられている。
 基本が絶対的に重要であることは殆どの人が十分に理解し認識している。言うまでもなく私も同様である。しかしもう一度基本という言葉を掘り下げて勉強しなければならないと思う。基本無くしては何ごとも始まらない。基本なくして大成はありえない。これは疑う余地がない。したがってこのことは生涯忘れてはならない。そこで、その基本とは誰が、何時作ったものなのかという視点と、更に基本の次の段階として研究を深めてゆくべき形や組手など必要の稽古の要素の存在を疑う余地はない。これを如何に認識し如何に進めてゆくべきか。  基本といっても無論完全なものはありえない。空手を包む周囲の環境も多角的にみればそれは多岐の条件において大きく変化している。若し、仮の話しとして一生基本だけの稽古を続けたとしたらそのもたらす結果はどういうことになるだろうか。つまり基本の形として立派であっても実際の試合や組手の場での活用や成果はかなりおぼつかなくなることだろう。当事者は基本さえ確実なら大丈夫と言うかもしれない、しかしそのように簡単ではなく実際の試合の場は、つまり相手との勝負の場は全く別物と言っても良い程の違いがあることを、限りない試合の経験者達が熟知している。  先日、読売新聞に全日本柔道連盟の強化委員長でモントリオ−ル、オリンピック及びその直後かの世界選手権で共にヘビ−級で優勝し、金メダルを持ち帰った上村春樹氏の記述があったが、日本の柔道界は常に柔道とJUDOの間で闘っている。なまやさしいものではない。と。背の高いもの、力の強いもの、手、足の大変にリ−チの長い者、ロシアのサンボの投げを得意とするもの、現在の日本人が全く知らない柔道の「隅がえし」その他の投げを打ってくるもの、それらに対して「勝ってあたりまえ」という国民感情を背に必ず勝たねばならない。それが今、現在における空手というものなのである。時には外国に1人で派遣し、急に予定を変えて転戦させホテルや切符の手配を1人でさせ、心理的にも精神的にも馴れさせなければならない。と。空手にしても選手達に要求されることは全く同様なのである。空手とKARATEの間で戦い勝たねばばならない。  今年の大阪での柔道世界選手権では100Kg級の井上康生は全て一本勝ちで優勝したが、内股で相手を投げる時、共に二人が片足で立ってあしをかけ合ってて攻めぎあいながら井上は自分の立足を何と、三度もずらして足腰を整え直して一本勝ちを制したのだった。更に、次の選手との対戦では井上の投げ技が通用せず相手が四つ這ひになり「優勢]にもならなかった時、間髪を容れず四つ這ひのわきから、自身の稽古着を相手の首に巻きつけて締めて見事に一本をとり、他の選手達も快勝して四日にわたる試合の初日だけで四人出場の三人金、1人銀か銅の成績であった。日本の柔道は進歩し、確実に世界の場で確かなレベルになったことを確認した。  同様に空手も世界の場で単に「日本の空手」と言ってもはじまらない時代を迎えている。外国のKARATEと勝負して勝たねばならないのだ。

 戦後の沖縄を名実共に代表する長嶺将真師はその書の中で猫足立の空手に於ける重要性を説かれ、極めて重要な立ち方であるとして私も以前から同感だが、他の基本となる立ち方、攻撃手、受け手と共に稽古の折にそれらを合計して、全てで5分でも、10分でも行うことを続けることが重要であると説かれている。かねてから私は基本について1年ではなく2年はみっちりと稽古し、併せて形を稽古することによって相互補完的に質を高め基本の内容を確実にし、次第に組手の段階に入り、組手の稽古を通じて自己の基本の問題点の発見、伸ばしてゆく部分の発見など、基本、組手、形、相互の経験によってこそ得られる自身による問題部分の発見と、変化に臆することなく、工夫、改善を重ね、有効活用によって発展を実現してゆくことが理想と考えている。  そしてこの、長嶺師の説かれるごとく基本の稽古時間をここまで省略してゆくこと、そして且つ生涯、基本稽古を日に合計で5分でも10分でも継続して、基本の乱れを矯正して行くこと、そして創られた他の時間を他の稽古に充てることによる相互補完の方法をかねてから私の理想と考えていたが、うれしく思った次第であった。

 足利義満の時代に能を完成したと言われる観阿弥、世阿弥親子が能の極致に到達する段階として開いたと言われる「守」「破」「離」は、
「守」として、先ず教えを受け、これを忠実に守り、之を厳しい錬磨によっ身につけ
「破」として、続いて更に、「守」の領域を自ら破って、自らの研究、工夫、独自の経 験によって、研ぎ澄まされた感覚の領域を加えて鍛練を続け
「離」として、意識する領域から離れて自ずから在る。
 のようなものであるのかもしれない。
 「守」の厳しい修行と、之を経て次第に「破」の修行との併行を意識し、実行することが誠に重要と考えている。